秋田の基礎知識

渋江内膳政光

しぶえないぜんまさみつ

天正2~慶長19(1574~1614)年。秋田藩初期の家老。小山氏の一族荒川氏の出身で小山氏滅亡後に常陸で佐竹義宣に仕え、後に渋江氏を嗣いだ。秋田転封後家老となり禄高3000石余り。藩の統一検地の先竿・中竿の実質的責任者で、この際の検地手法が“渋江田法”とされ長く秋田藩の土地制度の基本となった。また、林業でも“国の宝は山なり、(中略)山の衰えはすなわち国の衰えなり”として秋田杉の保護と育成に尽力した。慶長19(1614)年の大阪冬の陣の中で最も激戦とされた今福合戦では、先手大将として出陣し秋田藩を勝利に導くも敵弾に倒れ戦死した。その際、渋江の陪臣6騎も同じく討死している。以後、子孫は代々家老の家格となり久保田城内の一部、現県民会館敷地内に屋敷を与えられ刈和野給人を組下衆に持った。