秋田の基礎知識

大河兼任の乱

おおかわかねとうのらん

文治5~6(1189~90)年、八郎潟東岸に勢力を持った豪族・大河氏が鎌倉幕府に対して起こした反乱。『吾妻鏡』によれば、兼任は2人の子とともに7000人の勢力で挙兵して多賀城を目指した。八郎潟の凍結した湖面を進軍中に氷が割れ、5000人を一挙に失うが、男鹿・秋田・津軽で敵を破り、平泉で陣容を整えた時には1万の兵力にふくれあがった。幕府は千葉常胤・比企能員(ひきよしかず)を征討軍として派遣。兼任はこれに敗戦を重ね、最後には陸奥栗原で斬殺されたとされる。また、大河氏の出自は木曽義仲の裔孫ともいわれる。