秋田の基礎知識

戊辰戦争

ぼしんせんそう

戊辰戦争

慶応4~明治2(1868~69)年、鳥羽・伏見の戦いから五稜郭戦争までの、明治新政府軍と旧幕府・諸藩の戦い。秋田藩は当初東北諸藩とともに奥羽越列藩同盟を結び、朝敵とされた会津藩を支援する立場をとった。しかし、藩内では参戦か中立かで意見が分かれ、新政府・仙台藩の双方からの働きかけもあって対立が収まらなかった。慶応4(1868)7月4日、12代藩主義堯(よしたか)が「一藩勤皇」を決定、仙台藩の使者は勤皇グループの手で斬殺された(写真:秋田市寺内の仙台藩殉難碑)。
亀田・本荘・矢島などの諸藩も秋田藩に同調した。 秋田藩の同盟離脱を受け、庄内・米沢・仙台軍は由利・院内から、南部藩は鹿角から秋田領内に侵攻した。秋田側は敗戦を重ね、横手城は陥落、本荘藩は鶴舞城に自ら火を放って退却、亀田藩は降伏して同盟軍に加わるなど、秋田の南部はほとんど同盟軍に占領された。北部でも南部軍によって大館城が陥落、北秋田市まで攻め込まれた。これに対し薩長を中心とする新政府軍は海路を使って次々と援軍を送り込み、戦況が好転しはじめた。そして9月11~12日、久保田郊外の椿台で決戦し、ようやく同盟軍を打ち破った。3カ月の戦いで、両軍で600人を越す死者(半数以上が秋田藩)を出し、放火・略奪などで一般民衆にも甚大な被害を出した。