古代から中世にかけての城や柵の説明で、誤っているものはどれか。

1

湊城は湊安東氏が本拠としていた平城で、軍事的機能より雄物川舟運や日本海海運など経済活動を重視していたことがわかる。佐竹氏が久保田に城を新しく造ると湊城は破却された。今も土崎に旧湊城址として、その跡が残っている。

2

本堂城は仙北中郡の武将であった本堂氏の居城跡。仙北平野の中に作られた平山城で、今でも本丸や土塁、内堀の跡が良く残っている。

3

秋田城は元出羽柵とされたものが760年頃に秋田城と改称されたと推定されている。律令政府が蝦夷対策として作った最北の軍事施設で秋田市高清水公園がその場所である。11世紀まで存続したと推定されている。

4

金沢柵は後三年合戦で清原氏が立て籠もった最後の軍事拠点で横手盆地中央の東端に位置している。本丸・北の丸・西の丸などから遺物や建物の跡などが多数発掘されている。